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 ◆ 「全米チャートの基礎知識」 (4) (「New Hikki's World BBS」:さとピーさん記) ◆

これは、04年8月24日〜27日に、宇多田ヒカルのファンサイト「New Hikki’s World」の掲示板に掲載された文章です。
ただし、今の時点で間違っていたり、新たに情報が分かったりという部分は、書き換えてあります。
また、「ビルボード」の最近の変化に対しても、説明を加えてあります。時間軸を多少混乱する人がいるかもしれませんが、ご了承下さい。
                                                                            (05年2月16日)

(4) 「ビルボ」に登場した日本人アーティスト


最後に、この長い「ビルボ」の歴史に登場した日本人アーティストを紹介したいと思います。ぼくは今までに海外進出を図ったアーティストは50組以上挙げることが出来ますが、チャートインした人達はほんのわずかです。多分、そのアーティストのファンもいっぱいいるでしょうから、あえて誰が失敗したとは言いません。だから、これから名前が出てこない人は、チャートインしなかったのだと、その人のファンは思って下さい。それから、もう一つ条件を挙げると、基本的に日本人のアーティストのみに絞りますので、日系2世、3世は省きます。日本の国籍のない人も同じです。また日本人でも、グループの1プレイヤーは省きます。あくまでグループのリーダーか、ボーカリストのみを対象にします。それでは行ってみましょう。


まず、「ビルボ」に登場する日本人を語る上で欠かせない人は、何と言っても坂本九です。63年の6月15日付で、全米シングル総合TOPに輝き、3週連続1位を記録し、ミリオンセラーとなり、全世界で1300万枚も売れた文句なしのスーパーヒットでした。この辺の話は、この掲示板で既に何度もしてますよね(笑)。次作の「ChinaNights(sina no yoru)」も58位まで上昇しましたが、それまででした。これ以降しばらくの間、シングル総合チャートには、日本人は縁がありません。なおアルバムは「SukiyakiAndOtherJapaneseHits」が発売され、アルバム総合14位まで上がりました。もちろんこれは、これまでのアルバム日本人最高位記録です。


しかし「ビルボ」には色々なフォーマットがあって、それぞれ専門的なチャートが存在するわけですが、そのうちの一つが、いまの「R&B」の古(いにしえ)のチャート「Rhythm&Blues」です。黒人しかランクされないこの伝統あるチャートに、キングトーンズの名曲「グッドナイト・ベイビー」が何と48位にランクされてしまいました。1969年の事ですが、これはこれで快挙でしたね。何せソウルの本場で、ソウルのチャートに載ったわけですから。そういえば、あの頃はソウルブームの真っ最中で、夜毎「GoGoパーティ」に参加したもんです。ちなみにぼくのカラオケの十八番(オハコ)はこの曲で、ラストの帰り間際に必ず歌います(笑)。


次に話題をさらったのは、クラシックチャートです。シンセサイザーの世界的な第一人者、富田勲の「SnowflakesAreDancing(月の光)」がクラシック・アルバム・チャートの1位となり、この年の全米レコード販売者協会の74年度最優秀クラシカル・レコードに選ばれています(なお、アルバム総合チャートにもランクされ、最高位57位でした)。75年の第2弾「PicturesAtAnExhibition(展覧会の絵)」もクラシック・アルバム・チャートで堂々の1位に輝き、またまた最優秀賞を2年連続で獲得しました(このアルバムも総合チャートにランクされ、最高位49位と富田の中では一番のヒットでした)。76年の「Firebird(火の鳥)」もアルバム総合チャートで最高位71位。そして77年には「ThePlanets(惑星)」で「ビルボ」のクラシック・アルバム・チャートで3枚目の1位を取りました。彼が「世界の富田」と称えられる所以です。


76年には、ドラマー&パーカショニストのツトム・ヤマシタが、あのスティーヴ・ウインウッドなどと共に「Go」を発表。アルバム総合チャートで最高位60位を記録しました。


79年に入ると、当時史上空前と言われたブームを巻き起こし、日本最大のスターになっていたピンク・レディが、突然全米進出を果たします。渡米し、CBSの人気番組「レイフ・ギャレット・ショー」に出演したのです。英語盤「KissInTheDark」は、この年の7月28日付のシングル総合チャートで38位にランクされ、坂本九以来の「TOP40」入りを果たしたのです。翌週は37位まで上がりました。その後80年の2月29日からNBCで、何と夜8時からのレギュラー番組を持ちます。その名も「PinkLadyShow」。残念ながら5回で打ち切りになるほどの散々な視聴率だったようですが、彼女達の大善戦を称えたいと思います。


さらにこの80年には、イエロー・マジック・オーケストラが全米に進出し、「ComputerGame」がシングル総合にチャートインし、60位まで上昇しました。この曲は、当時全世界で流行していた「インベーダーゲーム」の操作音が曲に入っていて、それがウケたという話も有りますが、とにかくインストルメンタルでは、日本人初のシングル総合チャート入りです。この後アルバム「YellowMagicOrchestra」が発売され、アルバム総合チャートの81位まで上がりました。


翌81年3月には、あのヨーコ・オノの「WalkingOnThinIce」がシングル総合チャートで、58位まで上がってます。これにも理由があって、実はこの曲のレコーディング作業中に、ジョン・レノンが暴漢に暗殺されたんですね。それゆえのヒットというと、ちょっと淋しいですけどね。さらにこの後、勢いがついて「SeasonOfGlass」がアルバム総合チャート最高位49位。82年には「It'sAlright(ISeeRainbows)」がアルバム総合98位と活躍します。


81年の8月にはYUTAKAという当時無名の日本人アーティストの「LoveLight」が、シングル総合チャートの81位までランクアップしました。YUTAKAは横倉裕という日本人で、セルジオ・メンデスに憧れて渡米し、向こうでミュージシャンとして活躍します。この曲がなぜ突然ランクされたかというと、実はあの実力派歌手、パティ・オースチンとデュエットしているからなんですね。色々理由があるもんです。


85年になると、それまで欧米ツァーなどをやっていて世界進出を図っていた、日本のハードロックバンドのラウドネスが、アメリカで録音した「ThunderInTheEast」というアルバムを、アルバム総合チャートにランクさせます。最高位は74位でしたが、100位以内に19週チャートインするロングセラーになりました。これも全米をこまめにライブして回った賜物です。そして翌86年には次作「LightningStrikes」をまたまたアルバム総合チャートに載っけて、最高位64位を獲得しました。


90年代に入ると、いよいよ日本のアイドル歌手ナンバーワンの人気を誇った松田聖子が、アルバム「Seiko」で世界進出、全米進出を図ります。シングルのチャート作戦は、当時アメリカのアイドルグループの頂点に立っていたニューキッズ・オン・ザ・ブロックのメンバー、ドニー・ワールバーグとのデュエットで「TheRightCombination」。今で言えば、イン・シンクのジャスティン・ティンバーレイクとのデュエットに当たるのかな(笑)。かなり期待され、90年6月にシングル総合チャートを上昇しますが、結局54位で力尽きてしまいます。大仕掛けを打って挫折した松田聖子でしたが、その後も全米進出には情熱を傾けています。


96年にはアルバム「WasItTheFuture」を23ヵ国で発売。アメリカでは、シングル「Let'sTalkAboutYou」「GoodForYou」とたて続けにダンスチャートのクラブ・プレイのフォーマットにランクさせています。02年には「area62」というアルバムを発売。その中から「AllToYou」という曲を、同じくダンスチャートのクラブ・プレイ20位以内にランクさせました。特に03年の「JustForTonight」という曲は、ダンスチャートのクラブ・プレイ15位、ダンスチャートでのシングルのセールスが17位と、これまでのダンスチャートでは最高の成績を収めています。松田聖子は90年、96年、02年のアルバム発売の時は、いずれも「ビルボ」に全面広告を打ってるし、クラブサーキットもマメに続けていた事を知る日本の音楽ファンは少ないと思います。


さて、聖子が全米デビューを果たした90年に、実はラテンチャートのアルバム部門で、大変な事件が起きてました。日本のサルサバンドであるオルケスタ・デ・ラ・ルスのアルバム「DeLaLuz(サルサ・カリエンテ・デル・ハポン)」が何と11週連続1位を確保したのです。マジソン・スクエア・ガーデンでのライブが大評判を呼んだのが発端でした。彼らはこの後、中南米を中心に世界22ヵ国をツァー、国連平和賞も受賞しました。


同じく90年には、あの喜多郎がアルバム「古事記」で「ニュー・エイジ・チャート」のフォーマットで8週連続1位を取ります。既に87年からグラミー賞にノミネートされていましたが、この大ヒット以降、彼の音楽はアメリカの音楽関係者に広く知られる事となり、2000年に「ThinkingOfYou」でグラミー(ニュー・エイジ・アルバム部門)賞を獲得します。


97年には、コンテンポラリー・ジャズ・チャートのフォーマットで松居慶子がアルバム「FullMoon&TheSunshine」で、最高位2位にランクされます。そして01年には、「DeepBlue」が、同じコンテンポラリー・ジャズ・チャートで1位になっています。彼女はスムースジャズのピアニストとして、2000年、01年と2年連続して全米スムースジャズ大賞の最優秀女性アーティスト賞にも輝いています。


翌98年には、ダット・オヴンというユニットが「ChelseaPress2」という曲で、ダンスチャートのクラブ・プレイ部門で1位を獲得します。これ以降も「IcyLake」「JetSet」などがクラブ・プレイ・チャートのTOP10にランクインしました。このユニットのリーダーが森脇俊二。90年に渡米して向こうで人気DJとなり、今では日本でも活躍しています。


同じく00年のダンスチャートのクラブ・プレイで、日本を代表するハウス系のプロデューサーズユニットであるGTSの「ShareMyJoy」が最高位5位を獲得しました。これは、アメリカでもそれなりに知られているベテラン歌手ロリータ・ハロウェイと組んだからですね。この後も彼女を起用して、01年に「WhatGoesAroundComesAround」でクラブ・プレイ部門3位を取っています。また02年にはカリン・ホワイトと組んで、「Superwoman」をダンスチャートのクラブ・プレイ部門6位に送り込んでいます。


更にダンスチャートが続きます。テレビ東京の「ASAYAN」でお馴染みの小林幸恵ことニッキー・モンローが、ナラダのプロデュースを受けて「Sukiyaki」を発表。00年12月3日付の「ビルボ」ダンスチャートで、クラブ・プレイ部門の11位にランクされました。


翌01年には、倖田來未の「TakeBack」がダンスチャートのシングルセールス部門で3月に20位に初登場して、18位まで上がりました。そしてついに同じ年の12月に次作「TrustYourLove」が、ダンスチャートのシングルセールス部門で、1位を獲得。シングルセールスの総合チャート(12月15日付)でも、最高位39位(12月22日付で最高位19位というソースもありますが、いまいち確認しきれていない)にランクされました。ただし、間違えないで下さいね。これはいわゆる総合チャートの「HOT100」ではなく、フォーマットの一つである「HOT100シングルセールス」というやつです。シングルセールスの現在の悲惨な状況は、既に話しましたよね。この辺が大いなる誤解の元になっているので、念のため(笑)。


実はこの人たち以外でも、あと2、3組は日本人で入ってる可能性が高いんだけど、ダンスチャートはマイナー過ぎるので、確認できません(例えば、93年のNOKKOの「IWillCatchU」クラブ・プレイ11位とか、サトシ・トミイエが「Darkness」とか「LoveInTraffic」をクラブ・プレイにチャートインさせたとか)。結局ダンスチャートって、所詮シングルが100枚売れればチャートイン出来る世界ですし、アーティスト名よりヒットに大きくモノを言うのは、リミックスする人のネームバリューなんですよね。倖田來未もヘックス・ヘクターという、クラブ関係者の間では超有名人を使っていますし。アーティストの力より、リミックスするDJやプロデューサー次第というのが「ダンスチャートの真実」なんです。
(これで連載終了です)

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